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最新のコラム

この世界に、「他人事」なんてない

2016/10/17

執筆 かにわ ひろみ

 

わたしたちは「自分に関係ないこと」を「他人事」と呼び、壁を築いてしまいがちです。しかし少しばかり頭をひねれば、自分と無関係な事物などないのではないでしょうか。

 

先日コンビニでシュークリームを買ったときのこと。「運命」は、ほんの少しの偶然が重なってできるものであるように感じました。二つあったシュークリームのうち生クリームのものを選んだのですが、後ろに並んでいた人が残ったカスタードクリームのものを買っていったのです。

 

もしここで私がカスタードクリームのものを買っていたら、後ろの彼女はおそらく生クリームのものを手に取ったことでしょう。この一連のちょっとした行動で、私は名前も知らない他者のご褒美タイムのお供を変えてしまったわけです。おやつに食べたものによる胃もたれの度合い次第で、その日の夕食の献立も変わるかもしれません。そうなれば使用する食器や食事にかかる時間なども影響を受けるでしょう。すると水道や電力の使用量も変わってきます。また、カスタードクリームのシュークリームにたまたまアレルギー物質が入っていて発疹が出たため後日外出を控えたことで、いつも使う歩道に突っ込んできたトラックに轢かれずに済むかもしれません。楽しみにしていたお出かけができないのは残念ですが、けがをするよりましだったのかもしれない。しかしけがをして入院した先の病院の理学療法士と結ばれ幸せな生活を送ることができたのかもしれない……。

 

こうして次々とわずかなズレが重なっていくことで、「運命」は大きく変容します(このようなことは生クリームのものをこの身体の一部とした私自身にも当てはまることでしょう)。かくして「運命」は自分や周りにいる友達や先生や同僚だけのものではありえず、わたしたちの存在の全体が世界のすべてにつながりを持っています。実に不思議なものですね。「運命」はさながら、やわらかな西日につつまれて風にきりもみされながら落ちていく木の葉のようなものでしょうか。確実に落ち続けてはいることはわかるが、いつどこにどのように落ちるかはわからない。そしてその葉にとってそれ以外の落ち方はありえず、それが幸せな落ち方であったかどうかはいつまでもわからない。

 

 要するに、わたしたちに無関係なものなど決してないと思うのです。毎朝利用する鉄道で自殺があったならば、彼または彼女の背中を押してしまったのはわたしたちひとりひとりでもあるのではないか。逆に、わたしたちが呑気にコラムを読んだり書いたりしていられるのは地上で起こった無数の出来事のおかげなのかもしれない、というわけです。言い換えれば、人はいかなるかたちでも、そこにいる限り世界から離れられないのですね。(とくに最近では、メールやラインを通していつどこにいてもすぐに人間関係にからめとられてしまいますよね。そんなものなくてもつながっているのに。)

 

だからなんなのか。ここまでみてきたように考えると生きることはかなり窮屈になりそうです。事実窮屈です。しかし世界とのつながりに対する認識を欠かさないことは重要です。すべてはつながっているのだから、そこに人為的な壁を築くことは破たんを招くわけです。宮崎駿監督『天空の城ラピュタ』において、「ラピュタはかつて恐るべき科学力で天空にあり、全地上を支配した恐怖の帝国だったのだ」とされています。ラピュタの人々はこの窮屈極まりない地上を離れてしまったのですね。それが地上の脅威となった。これに対する、「(人間は)土から離れては生きられない」という主人公の台詞は印象的です。ここに、わたしたちの無関心は象徴されているのではないでしょうか。

 

……拙い文章で失礼いたしました。このコラムを書いたのは穏やかな秋の日の昼下がり。厳しかった夏は、疲れ切ったひとのようなやさしい季節になりましたね。もっと語りたいのですが秋の日は釣瓶落とし、澄みきった夜が近まで来て待っているので、キーボードを閉じましょう。この運命と偶然とに愛をこめて。

              なぜ「執行部」なのか


                        執筆 17 副ゼミ長 高山 直毅 


 手記を書くに「僕はこんなに頑張ったんだ」みたいなことを書くとだいぶかっこ悪いので、「執行部」という言葉を解剖しながら1年間の実感を込めてみたいと思う。

 さて。水島ゼミには執行部がある。他のゼミにはないそうだ。ゼミ長(幹事長)だけだったり、副ゼミ長(副幹事長)2人だったり、総務(副総務)なる役職があったりするが、ゼミ長と副ゼミ長2人による執行部という組織が明示されていることは珍しいことなのかもしれない。

 水島ゼミには「水島会」「合宿」などの名前を冠した「係」がいくつもある。一方で「部」は執行部のみだ。一般的な日本語の語感から言って、「係」よりも「部」は上部の組織だ。企業でも係長が部長の上司であることは考えにくい。このなぜ「執行部」は「部」なのかという問題を考えるには、「執行」という言葉を考えねばならないだろう。

 先に述べたように、水島ゼミには多くの係があり、各係が運営主体となってイベントや事務雑務をこなしてくれている。では、執行部は何のために存在しているのか。調整機能だけであれば、他のゼミの総務と大して変わらないではないか。思うに、執行部の存在意義は責任を持つことに尽きる。各係がゼミ生にお願いや要請を行う時、執行部は明示にしろ黙示にしろ、その「執行」に対して正当性を与えているのではないか。つまり、各係が強制力を発揮する時にそれは執行部の名のもとに行われていると捉えることができる。運営主体としての係がいるとするならば、責任主体として執行部は存在するのである。官僚機構と政府と捉えるとわかりやすいのではないだろうか。「官僚が勝手にやったことだから知らぬ」と大臣が言うわけにはいかないのである。だからこそ、執行部は同期ゼミ生の同意によって選ばれる「係」より上部の「部」なのだ。

 「執行」と「部」という2つの言葉を解剖して見えてきたのは、執行部が権力機関であるということだ。そして、この考えには私の1年という短い執行部生活の実感がこもっている。「ゼミ生同士の仲が良いこと」と「ワチャワチャ無責任に運営すること」は別の話である。どのような権力にも責任は伴う。ゼミの各係の運営に対しての責任を一手に引き受けるという機能が「執行部」には求められているのだ。それがなければ執行部各位の自尊心を満たしてくれる以外に大して存在意義はない。

最後に。「権力は腐敗する。専制的権力は絶対的に腐敗する。」というのはジョン・アクトンの有名な格言だが、各係の活動においてしっかりと主体性をもって動いてくれることで、我々17期執行部に対して緊張感を与えてくれた17期ゼミ生各位には感謝している。おかげで副ゼミ長としても一ゼミ生としてもなかなか腐敗できなかった()18期ゼミ生も「執行部」が腐敗したり責任放棄をしたり緩んだり仕事をしなかったりしたら「下」からガンガン突き上げて、緊張感に曝された責任ある「執行部」の元、より良いゼミを築

き上げていってほしいと節に願う。 

嫌われる勇気

17期 副ゼミ長 板東加那子

2013年の秋。17期の投票によって、私は副ゼミ長に選ばれた。

17期執行部は、キラキラ(?)なゼミ長と、カミソリのような副ゼミ長と、私という組み合わせだった。正直、1年間うまくやれるのだろうか、執行部もゼミも途中で分裂しないだろうかという不安が大きかった。また、先輩方がいなくなり、後輩が入ってくるという不安もあった。これからは私たちがゼミを運営していかなければならないのだ、と。

手さぐりで始まった執行部だが、幸運にも途中で分解することはなかった。恐らく3人で常に情報共有をし、互いのことを気遣っていたからだと思っている。

また、常に執行部を支えてくれたゼミ員の存在も大きい。我々が発するメッセージを的確に受け止め、それ以上のレスポンスをしてくれた。ゼミ員の協力無しでは1年間、無事終えられなかっただろう。ほんとうに、ありがとう。

 

過去を振り返るのはここまでにして、ここからは執行部の一員として大切にしてきた考えを書こうと思う。それは、「嫌われる勇気」を持つことだ。

立場上、皆が難色を示すようなことを言ったり、実行したりしなければならなかった。その際、全てのゼミ員に嫌われないように立ち回るのは不可能だ。「嫌われることが嫌で八方美人に振舞い、結局何も事が進まない。」なんてことはよくある。これでは執行部が存在している意味がない。執行部の行動に評価を下すのはゼミ員であって、それに関与はできない。自分にできることはただ、最善だと思う方法を選び、実行するだけである。(あまりにも身勝手なことをすれば、叱責を受けるのは言うまでもないけれど。)嫌われるから、といってゼミ員の顔色を窺っているばかりでは、物事は進まない。素早く最善の方法を選び、実行していく必要がある。

確かに、他者から嫌われることは苦しい。できれば他者から肯定されて過ごす方が楽だ。ただ、いつか「嫌われる勇気」を持って物事を進めなければならない時がくるだろう。その時はこの手記を思い出して、足しにしてもらえたらと思う。

 

 

最後に、キラキラゼミ長、カミソリ副ゼミ長、1年間ありがとう。

あと少し、ゼミ生活を楽しもう。

「早稲田祭2012」にてシンポジウムを開催しました!

 

水島朝穂ゼミナール主催シンポジウム


 「沖縄『復帰』40年を考える」

水島ゼミとして、数年ぶりの「早稲田祭」への参加でした。

当日の準備等至らない点は多々あったことと存じますが、来年以降の活動に活かしていきたいと考えております。

たくさんのご来場、ありがとうございました。