ゼミ生コラム

個性の強いメンバーが集まる水島ゼミのゼミ生は日々何を考えているのでしょうか?

このページでは、ゼミ生がコラムという形で自分の関心のあることについて、思うままに書いています。

テーマは時事問題から自分の趣味について、とにかく多岐にわたります。

それぞれの個性が実に強く出ています。

このコラムを通して、ゼミ生のもうひとつの側面を知ることができると思います。

 

2012年度以前のコラムは左のバーからご覧ください。

 

ここでの意見はあくまでも一ゼミ生個人の意見であり、水島ゼミまたは早稲田大学を代表するものではありません。

 

17・18期(2014年度)

2014/10/04 執筆 高山直毅『風立ちぬ』~狂人による、狂人に贈る、狂人についての映画

2014/12/17 執筆 高山直毅 なぜ「執行部」なのか

2014/12/30 執筆 板東加奈子 嫌われる勇気

 

『風立ちぬ』~狂人による、狂人に贈る、狂人についての映画

                                               執筆 2014/10/24 高山直毅

 

 1年以上にわたって更新されていないゼミのエッセイ集のために、わざわざもともとあった友人編集のフリーペーパー用の原稿をポップに書き直したのだから、少なくともゼミ生には読んでほしい。不定期で映画評論をしてみようと思うのだが、最初からぶっかますと誰もついてきてくれなくなってしまうと思うので、多くの人が観ただろう『風立ちぬ』という題材を選んでみた。(以下、原稿)

 

 

 今のところ宮崎駿の「遺作」になる予定の『風立ちぬ』が公開されてから、1年弱が経ち、そろそろ評論してもネタバレで怒られることもないだろうから、軽く評論してみよう。あらすじはだいたいみなさんご存知だと思うが、あらすじを共有することもなく映画評論を始めるわけにもいかないので、簡単なものを載せておく。

少年の頃から飛行機に憧れ、東京の大学に進学、ドイツへの留学を経て、航空技術者となった堀越二郎(声:庵野秀明)。夢や憧れ、恋、やがて近づく戦争など、零戦を設計したことで知られる彼の若かりし頃を描く。(Movie Walkerより)

 簡単すぎるが、あらすじではあるので、お許し願いたい。ところで、そもそも観ていない人は評論を読んだってしょうがない。そして、観ているならばあらすじは必要ないのだから、あらすじを載せる意味があるんだろうか。まあいい。

 さて、この映画の監督宮崎駿は言わずと知れた日本アニメ界の重鎮であり、スタジオジブリという「クレムリン」の「書記長」であり(押井守談)、『千と千尋の神隠し』でベルリン国際映画祭の金熊賞を受賞した世界的アニメ作家だ。受賞したのはとても栄誉あることだし、同じ日本人として誇らしく思った方が非常に多かったのではないか。ただ、問題はこの受賞をきっかけとして、日本社会では宮崎駿やジブリ作品を礼賛しなければならなくなってしまったようだ。しかし、まず、この宮崎駿という人間を考えないことには『風立ちぬ』は語れない。ということで、まずは宮崎駿について評論していこう。

 言ってしまえば、宮崎駿は矛盾人間だ。ロリコンでマザコンで、超金持ちなのに共産主義者で、兵器ヲタクの平和主義者である。このことからわかるように、彼は狂ってる(もし、「ロリコンの熟女好き」の友達がいたら、確実に変態扱いしないだろうか)のだが、もしあなたが公に宮崎駿を狂人扱いすると前述のような雰囲気の日本ではあなたが狂人扱いされてしまうのであまりおすすめしない。宮崎駿のためにフォローすると狂人だからこそ、完成度が高いアニメを長年作り続けられたのである。話がいろんな方向にとんだが、この『風立ちぬ』は上記の宮崎駿の三大矛盾の一つ「兵器ヲタクの平和主義者」という葛藤に対する彼なりのアンサーという面がある。

 主人公の堀越二郎は純粋に飛行機が好きな航空技術者なわけだ。堀越は飛行機の空を飛べるという機能性やその機能を十分に発揮するために無駄を省いた結果による機能美を追求することに対して、並々ならぬ情熱を注いでいる。これは戦闘機であろうが変わることなく、よりよい飛行機(飛行機=戦闘機ではない)を作ることに真摯である。この堀越の飛行機に対する愛情は宮崎駿の姿勢なのだろう。しかし、純粋に素晴らしい飛行機を作りたいという堀越の姿勢を余所に時代は戦争へ向かっていく。戦争中に大好きな飛行機を作るためには戦闘機を作るしかない。しかし、戦闘機を作る過程で犠牲者は出るし、完成したとしてもその戦闘機に乗って出撃した人間は人を殺し、もし撃墜されればその人間も死ぬのである。大好きな飛行機を作るということが人を殺すことと直結する。人を殺したいわけではないが飛行機は作りたいという堀越の苦悩は、平和主義者なのだが戦闘機や兵器というものの機能やフォルムには憧れを感じるという宮崎駿の抱える矛盾の投影だ。また、この好きなものを作りたくてしょうがないという堀越はモノヅクリ屋としての宮崎駿自身であり、好きなものを好きな形で作ることができなかった堀越の立場と、好きなものをやりたい放題で作っている宮崎駿の対比は戦時中の社会、ひいては戦争というものに対する宮崎駿の辛辣な皮肉を感じさせなくもない。ただ、宮崎駿の狂気を一番私に感じさせたのは最後に近いシーンでの夢の中での堀越とカプローニの会話

()「君の10年はどうだったかね?力を尽くしたかね?」

()「はい。終わりはズタズタでしたが」

()「国を滅ぼしたんだからな。あれだね、君の零は…」

(ゼロ戦の編隊が飛んでいる)

()「美しいな。良い仕事だ」

()「一機も戻って来ませんでした」

()「往きて帰りし者なし。飛行機は美しくも呪われた夢だ。大空はみな飲み込んでしまう…君を待っていた人がいる」

 人によっては「ゼロ戦を作って、多くの若者を戦争に送り出し、多くの人を殺したのにも関わらず、『飛行機は美しも呪われた夢だ』とは何事だ」と怒り出しかねないが、これがもし表現者宮崎駿の気持ちだとしたらどうだろうか。「アニメは美しくも呪われた夢だ」というならば。モノを作る人は「大嫌いなものが大好きだ」という矛盾を抱えている。堀越もそうだが、大震災の中でも夢の世界に飛んでいってしまうような、ちょっとおかしな人なのだ。堀越の声優はエヴァンゲリオンの作者庵野秀明で、「棒読みじゃないか」と批判されていたが、あれでいいのである。「何を批判されようが、誰が困ろうが、自分の信条と反しようが、自分が素晴らしいと思うものを作ってやるのだ」という狂気の創作者たちに贈る狂気の創作者による狂気の創作者についての映画なのだ。

 この映画を観た友人で「ちょっとよくわかんなかった」という人が多かった。この映画では主人公堀越が全く自分を説明しない。今の日本映画では原則不自然極まりないとんでもない量のセリフで説明してくれちゃうから、観てる人間が馬鹿に(失礼)なってしまったのだろう。宮崎駿は映画の中に数々の意匠をちりばめている。長くなってしまったのでこれについての解説は別の機会に譲ろう。興味がある人は聞いてくれればお答えする。

最後になったが、少し「風」について語って、なんかいい感じのちょっとおしゃれな文化評論にして終わろうと思う。こういう話をすれば映画について何もわかっていなくてもあたかもすごくわかっているかのように人を騙せるのでお勧めだ。この作品の中で「風」は菜穂子のメタファーである。関東大震災直前、堀越と菜穂子が出会うシーンでは風がやってくる。そして、菜穂子が亡くなった(と思しき)シーンでは、風が去っていくのだ。「風立ちぬ」の「ぬ」は過去・完了なわけで、冒頭でやって来た風(菜穂子)は去って行ったのだ。こういったところに注意しながら、映画を観てみると意外と楽しいものである。

 

 

 

※なお、この評論は宮崎駿のインタビュー他、町山智浩氏、柳下毅一郎氏両名の評論の視点を参考に私なりの解釈をしたものである。もし、さらに面白いものが読みたければ、上記両名の評論文を薦めたい。評論は解釈のようなもので誰のモノかというようなことはない気もするのだが、早稲田大学はO保方さんの影響で剽窃に敏感になってそうなので、参考としてあげておく。

 

              なぜ「執行部」なのか


                        執筆 17 副ゼミ長 高山 直毅 


 手記を書くに「僕はこんなに頑張ったんだ」みたいなことを書くとだいぶかっこ悪いので、「執行部」という言葉を解剖しながら1年間の実感を込めてみたいと思う。

 さて。水島ゼミには執行部がある。他のゼミにはないそうだ。ゼミ長(幹事長)だけだったり、副ゼミ長(副幹事長)2人だったり、総務(副総務)なる役職があったりするが、ゼミ長と副ゼミ長2人による執行部という組織が明示されていることは珍しいことなのかもしれない。

 水島ゼミには「水島会」「合宿」などの名前を冠した「係」がいくつもある。一方で「部」は執行部のみだ。一般的な日本語の語感から言って、「係」よりも「部」は上部の組織だ。企業でも係長が部長の上司であることは考えにくい。このなぜ「執行部」は「部」なのかという問題を考えるには、「執行」という言葉を考えねばならないだろう。

 先に述べたように、水島ゼミには多くの係があり、各係が運営主体となってイベントや事務雑務をこなしてくれている。では、執行部は何のために存在しているのか。調整機能だけであれば、他のゼミの総務と大して変わらないではないか。思うに、執行部の存在意義は責任を持つことに尽きる。各係がゼミ生にお願いや要請を行う時、執行部は明示にしろ黙示にしろ、その「執行」に対して正当性を与えているのではないか。つまり、各係が強制力を発揮する時にそれは執行部の名のもとに行われていると捉えることができる。運営主体としての係がいるとするならば、責任主体として執行部は存在するのである。官僚機構と政府と捉えるとわかりやすいのではないだろうか。「官僚が勝手にやったことだから知らぬ」と大臣が言うわけにはいかないのである。だからこそ、執行部は同期ゼミ生の同意によって選ばれる「係」より上部の「部」なのだ。

 「執行」と「部」という2つの言葉を解剖して見えてきたのは、執行部が権力機関であるということだ。そして、この考えには私の1年という短い執行部生活の実感がこもっている。「ゼミ生同士の仲が良いこと」と「ワチャワチャ無責任に運営すること」は別の話である。どのような権力にも責任は伴う。ゼミの各係の運営に対しての責任を一手に引き受けるという機能が「執行部」には求められているのだ。それがなければ執行部各位の自尊心を満たしてくれる以外に大して存在意義はない。

最後に。「権力は腐敗する。専制的権力は絶対的に腐敗する。」というのはジョン・アクトンの有名な格言だが、各係の活動においてしっかりと主体性をもって動いてくれることで、我々17期執行部に対して緊張感を与えてくれた17期ゼミ生各位には感謝している。おかげで副ゼミ長としても一ゼミ生としてもなかなか腐敗できなかった()18期ゼミ生も「執行部」が腐敗したり責任放棄をしたり緩んだり仕事をしなかったりしたら「下」からガンガン突き上げて、緊張感に曝された責任ある「執行部」の元、より良いゼミを築き上げていってほしいと節に願う。

嫌われる勇気

17期 副ゼミ長 板東加那子

2013年の秋。17期の投票によって、私は副ゼミ長に選ばれた。

17期執行部は、キラキラ(?)なゼミ長と、カミソリのような副ゼミ長と、私という組み合わせだった。正直、1年間うまくやれるのだろうか、執行部もゼミも途中で分裂しないだろうかという不安が大きかった。また、先輩方がいなくなり、後輩が入ってくるという不安もあった。これからは私たちがゼミを運営していかなければならないのだ、と。

手さぐりで始まった執行部だが、幸運にも途中で分解することはなかった。恐らく3人で常に情報共有をし、互いのことを気遣っていたからだと思っている。

また、常に執行部を支えてくれたゼミ員の存在も大きい。我々が発するメッセージを的確に受け止め、それ以上のレスポンスをしてくれた。ゼミ員の協力無しでは1年間、無事終えられなかっただろう。ほんとうに、ありがとう。

 

過去を振り返るのはここまでにして、ここからは執行部の一員として大切にしてきた考えを書こうと思う。それは、「嫌われる勇気」を持つことだ。

立場上、皆が難色を示すようなことを言ったり、実行したりしなければならなかった。その際、全てのゼミ員に嫌われないように立ち回るのは不可能だ。「嫌われることが嫌で八方美人に振舞い、結局何も事が進まない。」なんてことはよくある。これでは執行部が存在している意味がない。執行部の行動に評価を下すのはゼミ員であって、それに関与はできない。自分にできることはただ、最善だと思う方法を選び、実行するだけである。(あまりにも身勝手なことをすれば、叱責を受けるのは言うまでもないけれど。)嫌われるから、といってゼミ員の顔色を窺っているばかりでは、物事は進まない。素早く最善の方法を選び、実行していく必要がある。

確かに、他者から嫌われることは苦しい。できれば他者から肯定されて過ごす方が楽だ。ただ、いつか「嫌われる勇気」を持って物事を進めなければならない時がくるだろう。その時はこの手記を思い出して、足しにしてもらえたらと思う。

 

 

最後に、キラキラゼミ長、カミソリ副ゼミ長、1年間ありがとう。

あと少し、ゼミ生活を楽しもう。